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Raspberry Pi 4にWi-Fiでsshしていたら引越しで詰んだ人に

個人的状況 ・引っ越しに伴いWi-Fiルータが変わったため、接続不能に ・SDカードはext4なので他PCは認識しない ・認識できるのはbootパーティション/ディレクトリのみ 対処1 ext4を開けるソフトを入れてwpa_supplicant.confに追記 メリット:あんまりない。強いていうなら余計なモジュールを読み込ませずに済む。 デメリット:OSが保証しないフォーマットの書き込みは危険。Wi-Fiへの接続に失敗した場合電源ブチ切りが不可避。 ①ソフト o:  Linux File Systems for Windows …10日間限定の文字に騙されかけるが、よく読むと"10日後には転送速度遅くなる"とあるので、が無料版ではない。 x:  Ext2fd …ext4には一部除き未対応で、対応させるにはLinuxが必要なので本末転倒。 x: wsl2…管理者権限下でもSDをマウントできない。 ②追記 ・複数の接続先がある時は確実に繋がるよう古い技術のものを使うべき。(5GHzより2.4GHz、WPA3よりWPA2) ・pskは平文でも通るので、wsl2からwpa_supplicantを使って暗号化する必要はない。 対処2 USB OTGで接続 メリット:よく検証された方法なので確実に接続できる。設定をミスっているとそもそも起動しない(らしい)ので電源ブチ切りを回避できる。 デメリット:Wi-Fiに一発で接続できるようにはならない。改めて修正が必要。 ・多分ここが一番親切。 【2019年12月版】ラズパイとMacの接続はUSB-C ケーブルだけでOK?!→ラズパイ七変化  特に、 給電用のUSBポートで接続し、電源もMac側に依存できる と明示している。 ・Macのバージョンアップで若干挙動が変わっている。macOS Ventura 13.2.1の段階では、①MacがPiを認識した段階でアクセス許可のポップアップが飛んでくる②インターネット共有は システム設定>一般>共有>インターネット共有にある。 結論 対処2で接続して安全にWi-Fi設定を修正するのが良い。
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ポケットWifi下でMinecraftサーバを立てた話

1日を潰したので後続のために共有。 動機 「自分も鯖ぐらい立てられて、機会があれば遊べるぞ」というポテンシャルが欲しかった。なお機会。 本質的条件  マイクラver:バニラ1.19.2  ポケットWifi機種:Speed Wi-Fi NEXT WX06  ホスト:macOS Monterey 結論 IPv6はLAN内にもグローバルに通用するものが割り振られるようなので、ここに直接アクセスすればよい(鯖側のifconfig/ipconfigで見えるものをそのままクライアントでDirect Connectのアドレス欄に入れればよい)。ただこのままでは通信をWifiにブロックされるので設定をいじる必要がある。ブラウザからWifiにアクセスして[詳細設定]>[IPv6パケットフィルタ設定]から  種別:通過  方向:in  プロトコル:TCP  宛先ポート番号:25565(またはサーバで指定したポート番号) を追加すればよい。 IPは変動することには変動するが基本的に電源を落とさない限りそうそう変わらないので短期的な鯖立てなら問題なし。 補足 pingテストを通すには  種別:通過  方向:in  プロトコル:ICMPv6  ICMPv6 MESSAGE:echo を追加すればよい。(注意:windows以外からはpingの代わりにping6でないとIPv6に対応しない) 課題  ・DDNS。  ・テザリングでも頑張ればできそうだけど未検証。 詰まったこと 原因究明の障害は以下の通り。  ・IPv4だとそもそも到達もしない。(Wifiのping機能をONにしてもWAN側からだと帰ってこない。)  ・IPv4だとtracerouteがほぼ死に、どこまで到達しているのか不明瞭。(IPv6だとフィルタ未設定状態でポケットWifiまで到達して迷子になるのが見える。)

劣等感と無限の生

自己正当化のために以下の仮説を立ててしまった。 仮説…劣等感は自分と他人を比較した時に自身の重視する能力で自らが劣っているときに湧く。しかし十分な時間を投下すれば能力は向上するから、無限の時間が与えられれば自他の差は向上速度の差となり、どのような能力にも潜在的には到達しうる。よって劣等感は生の有限性に起因するものであり、内在する性質ではない。 これはあまりに楽観的であって否定しなければならない。 反論…結論から言えば、たとえ永遠の命を授かろうが劣等感は消えない、却って残酷な能力の差が現出するだろう。 根拠1…能力向上速度の差とはすなわち学習速度の差であり、やはりこれも能力の一種である。 根拠2…無限の時間を投下しても越えられない差は確実に存在する。肉体的な差は意識の転送でも実現できない限り解消し得ないが、これは必要な記憶容量が物理的制約により確保不可能だと確信している。 根拠3…能力の上限値は人によって異なるため、無限の時間をかけても追いつくことはない。単調増加関数は発散するとは限らない。 ここから以下の考えが生成された。 副産物…もしも全人類が永遠の生を得た時、向上心のある上澄みを除けば多くは自らの限界に直面するのを恐れて敢えてずにいるだろう。 今日も鬱は冷徹さを授け、驕傲を打ち砕いて自死へと動機づけてくれる。

TeXworksの設定ファイル in Mac

問題:TeXworksの字が死ぬほど見づらいので色を変えたい、でもいくら探してもWindowsユーザーのため情報しかない、Mac対象の情報もあったけど古すぎてそこにファイルがない 対象:TeXworksユーザーかつMacBookユーザー 結論: ~/Library/Application Support/TUG/TeXworks にあります。多分その下の構造はWindowsとかと共通なので同じことやればできます。 環境: MacOS Big Sur 11.4 TeXworks 0.6.6("github") おまけ: 違ったら https://github.com/TeXworks/manual/releases/ からmanual落として<resouces>見てください。

触発

※ 読まないでください。  昔から読書感想文が、というよりも自分の感情を明確に文章として書き表すという行為が不得手なのですが ( 理由は明白で未だに嬉しい悲しい好き嫌い以上の感情が分化していないからです、5歳児以下ですね ) 、今回珍しくこの日常生活と運動の次ぐらいに苦手なことを自発的にやりたいと感じたので書きます。多分頭痛薬飲んだせいです。  晴れて第一志望に合格したその喜びは十日と持たず日常化されました。いつものことで、広義増加でないと気分が上がらないのです。退屈からツイッタランドに逃げ込みますが、他人の活動は常に劣等感を引き起こします。それでも見てしまうから何か中毒でしょう。毎夜 1 時には寝ようと決意しては、暗闇の無聊にスマホを開く日々でした。  そして W****** が降って来ました。 ( これは自分ではコントロールできないというニュアンスです ) 正確な世界を見るのは義務なので、堪えて TL を見ました。すると H**** が K******* でいるじゃあありませんか。ああ素晴らしいじゃあないか、彼は謳歌しているじゃあないか、楽しかろう面白かろう、私もそうなれれば。  「私もそうなれれば」この思考に何回傷ついたことでしょうか。初期値も経路も違うのに、同じ関数になれると信じている、この自信過剰な憧れ。そこで私は何度も何度も不可能を突きつけて、それで勝手に鬱くなっているだけです。世界は何も悪くない、むしろこんなにも素晴らしい。だが私は世界になれない。だから世界から私を切り落とせ、落ち葉が自ら散るように、世界を腐ったリンゴでダメにしないように。  そんな時ーいやこの表現はやめましょう。まるでデウスエクスマキナですーああまた鬱だと思って、 K**** の遡りをしました。それもテキストを。これはまだ未来を信じていた頃の慣習で、他人の経験を見て純粋な羨望を胸に抱いたものでした。今でもそのときの高揚が忘れられなくて、悲しくなるとこういう異常行動に走るのです。   K**** だとか A**** だとか S**** だとかそういうワードで until すれば経験談が散らばっていて、それを拾って読むのです。その非日常性に没頭している間は自分の将来性の無さを忘れて恍惚としていられるのでした。その中に ( これは今まで未発見でした )H*****B*** があるというので

二重思考log

つらみを覚えた時 私の望みは叶わな … くて叶う。 上記の文は前言が正し … く後言が正しい。 上記の文は前言が正し … く後言が正しい。 上記の文は前言が正しく後言が正しい。 上記の文は前言が正しく後言が正しい。 上記の文は前言が正しく後言が正しい。 上記の文は前言が正しく後言が正しい。 上記の文は前言が正しく後言が正しい。 忘れた。 さて私は悲観的思考をしてしなかった。 上記の文は前言が正しく後言が正しい。 上記の文は前言が正しく後言が正しい。 上記の文は前言が正しく後言が正しい。 上記の文は前言が正しく後言が正しい。 忘れた。

死の阻害と義務

 もしも私が死ぬことで、私に割り当てられていた資源や権利や資本が、私よりも能力のある人に割り当てられて、私が生み出したろう成果よりもより優れた成果を生むのなら、その人は私に優越しているのであって、私が生きる意味は無く、むしろ死にこそ価値が生まれる。  けれども現代日本は、人を死なせたりしないので、私はせめて資源の無駄にならないよう、可能な限りの生産性向上が求められる。私の持つ能力でもって、与えられたものから、最大限の成果を引き出せないのなら、私の生に価値はない。  だからこそ私は趣味も娯楽も何もかもを捨てて、矮小化された生活と、肥大化するだろう学問の、この二つだけを汲々と維持すればそれでいい。というより、そうでなくてはならない。  なぜなら、私は趣味で成果を生み出し得ない。私が着ぐるみを着ることで、誰かが喜ぶだとか、そういう幻想を抱いても、現実になることは決してない。  私が好きだということと、私ができるということと、私がすべきということとは、三者三様で、私はできてかつすべきことをすべきで、好きでかつすべきでないことはすべきでない。  ただそれだけの簡単な、簡単な倫理を受け入れるだけのことが、できない私はそれができない限り子供である。